高貴なる殺人

ジョン・ル・カレ早川書房。スマイリー=凡庸という描かれ方が気の毒なほど。

光線に照らし出されたそのまる顔に、真剣な表情がうかんでいるところは、むしろこっけいなものと感じられた。かれの真価を知らずに、風貌だけを見ている人たちは、どのような印象を受けていることだろうか。彼女自身、まだ近づきの浅かった当時は、これほど凡庸な男も少なかろうと考えていたくらいだ。小肥りのずんぐりした体躯、分厚い眼鏡に、うすくなりかけた頭髪。栄えない職業に従事して、いつまでもうだつのあがらない中年の独身者。その典型といったタイプがかれなのだ。
 しかも、いたって内気なその性格が、服装にまで反映して、金をかけているくせに、吹きだしたくなるほど不格好な様子をしている。要するにこの男は、服屋のいわゆるカモで、思う存分しぼりとられているにちがいない。(p. 33)

かつて大戦中、その上司が、かれの人物を語って、魔王(サタン)の狡智と処女の良心とをあわせもつ男と評したことがあるが、それもあながち、不当な評価とは思えなかった。(p. 128)

しかし、さすがにスパイに関するすぐれた洞察も。

スパイ稼業という裏街道には、小説とは異なって、華やかな色彩を誇る冒険家が住んでいるわけではなかった。おなじ国に生れた同胞たちを敵軍の兵士同様に見て、生活し、仕事をつづけている場合、ただひとつの念願を学びとることになる。“気づかれまい。ぜったいに、他人から注意されまい” 街の人々にどうかして、一様化してしまうのが、最高の願望である。街頭ですれちがっても、視線を投げようとしない無関心な群衆を愛することになる。群衆のなかにまじって、無名の存在でいることが、身の安全を保つ唯一の道である。(p. 136)

スパイとは、みずから追いまわされながら、獲物を狩り出す職業である。群衆こそかれの領域であるのだ。言葉と身ぶりのはしはしを見てとり、視線と動作の交錯を記憶にとどめる。狩猟家が草むらの乱れや小枝の折れぐあいを記憶し、きつねが危険の徴候を嗅ぎ出すのとおなじにだ。(p. 137)

じつは、トリックを100%理解したとはいいがたい(恥)。情況証拠にもならない推測がメインで、犯人はまだ言い逃れができるのではないかとも思う。○○に××が入っているのを見たのではなく、入っていなかったのを見たから犯人につけ狙われた、というのが新味だったのかもしれませんが。