興奮

ディック・フランシス、ハヤカワ文庫。何十年ぶりかで再読。
第1章が主人公ロークの生活、性格、鬱積を過不足なく説明していて完璧だとか、オクトーバーの裏にいるベケット大佐がじつはかっこいいとか、その他小ネタはいろいろあったけれど、菊池訳について思ったことがひとつ。

スパーキング・プラグが勝った。私は大喜びだった。(p. 87)

一人称小説だから、ほかの多くの訳者は「私は大いに喜んだ」というふうに自分のこととして書くだろうが、ここでは、大喜びする「私」をあたかも「他人」であるかのように書いている。有名な「私が言った」のように、私から距離を置き、私を第三者と同等に扱う表現、これが菊池訳のかっこよさではないだろうか。「自分の他人化」がハードボイルドなのだ。