鏡の国の戦争

ジョン・ル・カレ、ハヤカワ文庫。『寒い国から帰ってきたスパイ』でブレイクしたあとの作品だから気も遣っただろうが、少々印象は薄いか。乱暴なことを言えば、「潜行員エイヴリー」の第二部は不要だった気もする。あるいはもっと短く切り詰めるか。もちろん、次のように始まる味わい深い箇所はあるのだけれど。

見知らぬ異国におけるスパイほど、たえず不安にさいなまれ、いうにいわれぬ恐怖におののくものはない。(p. 156)

ライザーが登場してからは流れがよくなる。エイヴリーとライザーの友情はのちの『ティンカー、テイラー……』にもつうじるテーマか。

すぐれた偽装というのは、つくりあげたものでなく、事実の延長であるのを忘れぬことだ。(p. 330)

私見では、ル・カレはディケンズをかなり意識している。たとえば、『パーフェクト・スパイ』における回想の現在形は『デイヴィッド・コパフィールド』のそれ。しかし、本書にジェーン・オースティンが出てきたのにはびっくり。

戦争中には、なんの質問もなかった。かれらは行くか、断るかだった。しかし、エイヴリー、なぜあの連中は行ったんだろう? ジェーン・オースティンは金と愛だといった。この世にあるのは、このふたつだけだと。ライザーは金のために行ったのではない。(p. 355)

また、下衆の勘ぐりかもしれないが、仕事のことを何も話そうとしない(話せない)エイヴリーと妻のサラの喧嘩の背後には、作者の実体験があるのではないか。